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鄭芝溶は、韓国戦争中に急に行方不明になりました。その後、韓国政府が彼を北朝鮮に渡ったとして彼の全作品を販売禁止にし、学問的な接近すらも禁止しました。それから30年以上が過ぎた1988年に、彼の作品に対する制裁処置が解かれ、その直後に鄭芝溶を慕う人々が「芝溶会」を作り集いを持ち、鄭芝溶の生家を復元して一般に公開しました。

 
 
鄭芝溶の生家は藁屋です。藁屋は、主に農村にあり稲わらで屋根を覆います。藁は断熱と保温生に優れ、農家と民家の屋根の仕上げ材として広く使用され、韓国の伝統農家(または民家)の建築様式として知られています。
 
鄭芝溶の生家は、やわらかな曲線を描いた屋根の趣きのある韓国の伝統民家で、貧しくても幸せに暮らした庶民のような素朴な美しさを持っています。そして、萩(はぎ)を結んで作った背の低い枝折り戸や土塀が韓国の伝統的な藁屋の趣きをかもし出しています。
 

 
鄭芝溶の生家は1996年に原形の通りに復元され管理されており、舊邑(クウッ)の十字路から北洞側方向の細い川の向いにあります。細い川の上に掛っている橋を渡れば、鄭芝溶の代表的な詩「郷愁」が刻まれた詩碑と生家の案内板があります。そこが鄭芝溶の生家で、生家の横の橋の下には相変わらず「郷愁」の前部分を装飾した細い川が流れています。その姿はずいぶん前に変ってしまいましたが、流れる水は昔のまま澄みきっています。
 
鄭芝溶の生家の生家は部屋の戸をいつも開けっ放しにしておき、訪ねる者に彼の父親が漢方薬を売っていたという事を知らせ、視線のいく所々に鄭芝溶の詩を掛けておき詩を吟味できるように配慮してあります。
 
 
韓国は伝統的に内外が厳格であり、両班の区分なく男性が出入りできない区域がありましたが、そこはまさに台所でした。台所は女性だけの活動領域であり、同時に炊事と暖房のための目的がありました。鄭芝溶の生家の台所の構造は、韓国の伝統民家の一般的な構造をそのまま反映しています。鄭芝溶の生家の台所は、薪と燃え種を保管する事ができる倉庫としての用途としても一部使用していた事を再現しています。ご飯を炊き、汁を作り、サツマイモやジャガイモのような野菜を蒸すのに使う釜と、その下に火を燃やす焚き口や釜を掛けて料理を作るかまど、そして当時の韓国の庶民の生活の様子が伺われる食卓が再現されています
 

 
鄭芝溶の生家の井戸の横の低い煙突は、韓国の先祖の知恵が宿っています。低い煙突はただ煙だけを吐き出すのではなく、家の中の消毒機能も兼ねています。低い煙突から吹き出された煙は、すぐには散らず家の庭をぐるぐると回って家の中の隅々を消毒します。
 
 
台所の戸の横を見ると、穀物や食べ物を加工する道具である石臼や木臼、そして杵が置いてあり、そこが鄭芝溶の生家である事を知らせる不釣り合いな表示板があります。その表示板には、鄭芝溶の姿と共に彼が生まれた年度と日時、そして生家がいつ崩れ、他の家が建てられたという内容が銅板に記されています。
 
 
鄭芝溶の生家は、主生活空間である2つの部屋の他に裏手に作った1間の部屋があります。その部屋は、裏手の屏側に出入り門が別途にあり、部屋の内側には奥の間に続く5メートルほどの人が1人歩ける位の狭い通路があります。両側の部屋に行き来できるその通路は、両側の部屋の戸を閉める閉鎖した形です。 その構造は、韓国の伝統家屋によくある?外壁から由来したものです。
 
 
 

昔の韓国の両班の家では、屏の中に屏を作り内外壁を築きましたが、それは女性たちを配慮した特別な空間であり、妻に対する礼儀を重視した韓国の風習でした。鄭芝溶の生家の裏手にある部屋と奥の間の間にある小さな通路は、嫁と舅の住居空間の分離であり、また家の裏手にある部屋は嫁が井戸と台所を行き来する独立した通路の役割をしている事がわかります。